エリフの言葉 (ヨブ32章2節、創世記22章20~21)

アブラハムの妻ミルカ、その子ナホル、ウツ、ブズとあるが、エリフはヤコブの妻ラケルとレアの祖母に当たるその息子の子孫である。ヨブが3人の友人に責められていた間、最初の方からずっと聞いていたが、黙っていた。年が若かったからである。
“神からのことばを語ってくれるはずだ”と思い、ずっと待っていた彼が、いかに、自分への神からの語りかけがあるのを我慢して言わずに黙していた内容が今回のところである。
ヨブに対してや、3人の友人に対してという“対象”はあまり関係なく、神が直接エリフに語りかけ、示して下さっている事を噴き出すように語っている。

バプテスマのヨハネ(イザ40:3、マタ3:3、ヨハ1:22,23)

イエス・キリストが来られる道をまっすぐにしたのがバプテスマのヨハネである。彼にとって自分のことばはなく、声である。適当にへつらっていても、真実は残り、真理は必ず現わされる。それは、真心からということを大事にしているという人にはすぐに分かる事である。

エリフの信仰姿勢 (ヨブ32章7、8,17,18節)

“人の中には確かに霊がある”というところから聖書を見ていかなければ真実には至らないが、若い人はエリフを見習い、周りの偉そうに言っている人の意見を聞き流して、若い時は出来るだけ黙って、遠くからそのことばをもって来て語るような日を待ち望もう。
ヨブは神に義のいけにえをささげ、礼拝をしていたのにもかかわらず、災いに遭い、神に見捨てられたのではないかと思い込み、自分の中に、礼拝をして来たという正しさや、義が残っており、その様な義の行いは永遠の贖いに通じ、“自分が正しい、悪い事はしていない、神に絶対に覚えられているはずだ”と、正しいということ自称していることが、周りには“神よりも自分を正しくしていると”いう風に見えた。それは、なぜかというと、最終的にヨブは正しかったと神に語られるたからである。
ヨブは試練に遭う前も正しかったし、試練に遭った後も神から他の3人がヨブのようには正しくなかったと語られている。これは、矯正ではなく、主がサタンと話し合い、ヨブの愛を確認するための“試練”だった。

神を愛するということについて、その当時、ヨブより正しい人はいなかった。よりヨブの正しさを周り示すために、これらのことがあったという事実である。神に覚えられているという事の中に、試練は、信仰的に成長するように試されているのであり、常に私たちは真実とそうでないものを見分け、真実を選ばなければならない。そういうなかで、真実を選び続けるという事が必ず結果につながることをヨブ記は教えている。どんなに、正しい事を選び続けていっても試練が続くという場合でもあまり気にするべきではない。ヨブのような全てを失うという事は先ずないと思う。律法の前の時代の話である。サタンが誘惑するのは律法の範囲内である。律法を先ず知る。行なえなくてもモーセの十戒を告白し、それを行なうことが出来なくても、それを行う事が正しい事であるという誓いを持っていれば、洗礼を受け、聖霊を求め、やがてそれを真心で守る事が出来るようになる。
正しい事が何であるかが分かっており、顧みられないときがあっても、本当に自分が正しいかどうか、いつも自分に問いかける必要がある。ヨブの場合はそれをして、自分を正しいとし続けていたのだが、周りの人はどうすべきだったかは、やはり、そっとしておくべきであった。自分が思い悩み、自分が正しかった場合は、特に誰かと言い争いをする必要はない。自分が真心からであったなら、そのままでいい(1テサロニケ2:1~4)。 神に認められて福音を委ねられた者は、自分を喜ばせようとするのではなく、神を喜ばせようとして語る。それが、真心である(2コリ2:17、ヘブ10:22)。私たちが神について語り合う時に必要なことばである。

ヨブの義(ヨブ35章2節)

たとえ、自分が正しくても、それは神からだとか神の正義によるものだと思ってはならない。神の義によって神に義をお返しするのである(ヨブ記36章3節)。自分の正しさを主張するのではなく、神の義を語るということである。彼の言葉の結論は「人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みられない。」というものである。
利巧ぶって生意気な心は、決して神には顧みられない。人の中には霊がある。神の霊が最も大切なものであるという事を悟らなければならない。何が正しく、何がこざかしいのかを見分ける事もできないからである。
心をお調べになる神を喜ばせようとしているかどうか。そこまでの存在として自分自身を神に奉げなければ神からは真実がないとされる。私たちの信仰の原点はここからだと言えるように。神の霊が一番大事である。ダビデ、ソロモン、他の預言者にも共通している(マラキ3:16)。
神の言葉は生きていて力があり、私たちの霊を刺し通すものである。自分の意見をどうでもいいとして自分が空になるのではなく、神からの霊が自分を溢れさせる言葉があるという違いである。
神が語らせて下さる。神の言葉によって生きる自分を、遠くからのものとして自分のものとしない。神からのものを神にお返しするという姿勢。若さを乗り越えて更に主を求めて行こう。
思考力が神からのもので溢れさせる神の生きた力の漲る者となりたい。エリフはずっと黙っていたという事も忘れず、聖書全体のバランスから、霊の部分をしっかり掴もう。
神を愛するという行いは犠牲が伴う。人は皆、どうすれば神に義と認められ、真実として受け入れられるかを捜し求めている。ヨブ記32~37章に答えがある。自分はそういう意見には程遠いと思う人も、エリフの意見を受け入れ、それに近づけるように読もう。自分の生活そのものが神を意識して生活して行くという意味で、義に飢え渇いている言葉である。
3人の友人の意見を世の常として読む必要もある。真実とそうでないもの。こざかしいもの。この違いを是非学んでいただいて、神の語りかけを待っていただきたい。
私たちはキリストにあって迷いや不純な動機からではなく、神の霊によって生きる自分と生かされている恵みを、キリストにあって義を受け、その義によって神に栄光をお返しするという生き方の中で、真実を語ることの出来る喜びに生かされている事を感謝しよう。
いつも人をさばくことなく、自分自身を吟味し、たとえ、自分が顧みられていない、見捨てられているように思うようなときでも、神からのものとして自分の存在をそのあくまでもその声であるという思いでアピールしていく事が出来るように。謙遜と柔和の霊を求め、敬虔の奥義を神の霊によって悟る者とさせていただこう。霊を強めてくださり、私たちが世の者とは違う神の霊によって成長し実を結びつづけていくことができますようにと、聖霊によってみことばを悟らせていただこう。

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