神の試みは人それぞれ違う。先ず、ヨブがどういう理由でこの試練にあったかをもう一度みる。律法以前、ヤコブの時代の頃である。アブラハムの子孫の地で育った義人ヨブについて、サタンが神に訴えた事が記されているが(ヨブ記1章)、モーセの時代に、律法によって罪が何であるかが決まった。律法を行なっていれば罪に定められることはない。サタンとも無関係である。律法を行う事が出来なかった時の為の律法もあった。
御子は、私たちの身代わりに十字架に掛かり、死んで下さった。贖いが成就し、律法は、その予型として示されていたものとして、私たちに語りかける(ガラ3:19、コロ2:17)。
そして、主はよみがえられた。試練についても理由がある。それは、信仰によってキリストに導くためのものである。
神は私たちの行いを全てご存知であられ、その上で、試練を与えられるのである。

神の方法(ヨブ39:1、40:15,41:1)

神の諭しは、天地創造について語られる事からはじまり、自然界の摂理を考えさせた。山羊の出産についてや、河馬のように考えるようにと。そして、レビヤタンという、当時、まだ生息していたであろうとされる恐竜。全てを見下ろす巨大鰐のような生き物について語ることにより、ヨブに悔い改めさせる。当時、ノアの洪水で殆どの恐竜は絶滅したが、海の生き物は残っていた。ヨブ記の時代だけでなく、ダビデの時代にも生息していた巨大生物である(詩篇104:26)。
神に忘れられたと思っていたヨブに、主は、山羊の出産をその月まで数えているという事を語られ、彼を励ます。これが、ヨブにとっては最上の答えであった。ほかのどんな哲学的な知恵や知識でも、ヨブは悔い改める事はできなかったのである。
ヨブ記38~41章は神の知恵である。自分の言葉で人を励まそうとするというよりも、やはり、エリフのように神の偉大さを常日ごろ考え、“私は神が偉大な方だと思う”ということを“自分は心底そう思う”と言えるようになることが大事である。エリフはヨブ記33章14節でこう言っている。「神はある方法で語られまた他の方法で語られるが、人はそれに気づかない。」神が語られる方法というのが、“人には分からない”という言葉からヨブは心を開きはじめた。彼がエリフの言葉で心を閉ざしていたら、神はお語りになられなかったかも知れない。神について考えるスピリットで、神が共にいて下さるという状況で、神は人に直接語りかけられる前に人を用いられる。

神は賛美の源である

私たちにとって音楽は賛美であり、一義的には神にのみ奉げられるべきものとして捉える。詩篇22篇3節に見るように、主は賛美の中に王座をもうけて憩われるからである。何という奥義であろうか。したがって、私たちにとって、音楽は神である。原語では、“住まいとしておられる”は、“王座に座す”という意味である。私たちが賛美を奉げる時に、主は王座をもうけて憩われる。音楽が神であるというのは、主が賛美するなかに御臨在して下さる事について、私たちは自分が賛美する意味について考えなければならない。そういう視点で聖書を読んでいくと、口を制する者は全てを制する(ヤコブ3:2)。つまり、私たちの賛美は神からのものであり、音楽というものは神にのみ奉げられるべきものとして、音楽は神である。
わたしたちの言葉というのはイエス・キリストに人々を導いたバプテスマのヨハネのような声としての感覚をもって、神の言葉が自分の中に賛美も言葉もすべて塩味の効いたものとして、生きた供え物として自身の魂が奉げられているかどうかが、神の関心である。
義とされるということの意味が分かっており、生活をしているなかで、ヨブのためではなく、サタン的な、サタンと心を共にするような感覚の人に対して(ヨブ記1章)、ヨブが試練にあったときに、どの様に礼拝し、どの様に言葉を選ぶか。そして、試練を乗り越えるか。というストーリーである。そういう状況で信仰を守り通すという事が、この書簡の示している事であり、実際、38~41章は神の愛でしかない。ヨブをしかりつけるような言葉はなく、自分を義としているのか?という疑問文で、“あなたは自分を義とした”とは、語られていない。たとえ、義人であり、正しい生活をしていたヨブでさえ、誘惑があった。正しい事をしている人が、“自分は良くやった”“正しい選択をしている”と思ってしまう誘惑は当然ある。そういう部分を神は否定なさらずに、覆い、更に、引き上げられるのである。ヨブは、やがて生きる気力を取り戻し、悔い改めるという方向へと向かって行く。

神は聖霊を通して今も語られる(ヘブ1:1~3、2:3,4)

イエス・キリストを通して、神が人の姿をもってこの地上に来られ、語られた。 聖霊により、今は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざ、そして、その聖霊による賜物によって語られる。聖霊が語られる時に、具体的な語りかけがあれば良いと思うが、現象だけという事もある。そういうときは、“聖霊によって聖書の諭しを与えて下さい”と祈る。それで、神が人それぞれにみことばを示される。それは、私たちがそれを宣べ伝えるためである。私たちはみことばを語る事しかしない。
今も聖霊が触れさせ、見させ、答えてくださるという時代である。へブル書はモーセの幕屋やヨシュアの記事が出てき、“約束のものはまだ残っている”と記されている。それは、贖いの御業を伝える事であり、それが、私たちに約束されている安息である。
聖書を学んでいる間に、なかなか時間がかかる。“自分の賛美に主が住まわれる”という感覚で歌を歌ったり、楽器を練習したりする。普段会話している言葉の使い方も、神がさばかれるという心の状態を、100パーセント聖霊で満たしていただくというところまでは、人それぞれレベルがある。何を信じたらよいか分からなくなるときもあるかも知れない。そういう時は、自然界に触れると良いのではないか。釣りは魚、自然との対話である。その経験の中で神が語りかけて下さった(ヨブ41:1)という事は明らかである。
ヨブの試練の中で、主はエリフを通して神に導くという、神の摂理を語るために用いられた。私たちも、神が語られる事が何であるかを考えるため、いつも主を思い、主が語られる方法が何であるかを見きわめる事が出来、聖霊によって語られる事がなんであるかを知る事ができるように。そして、主が私たちに願っておられる行動が何であるかというものを聖書的に選ぶことが出来るように。普段の聖書朗読。また、祈りの生活を祝福していただこう。モーセの十戒は、私たちがそのような罪を犯す者として選ばれたわけではないという意味であるという事を肝に銘じ、神が私たちの心、全ての事をご存知であられるという事。また聖書に立ち返り、ヨブのように悔い改める姿勢で生活して行く事が出来るように祈ろう。

Copyright © 2018 Kanto Glory/Eikou Church All Rights Reserved.