教会の歴史

 

三坂正治師のおいたち

三坂正治師は1940年、鹿児島の地に生を受けました。
士族の家系で父の兄弟たちはそれぞれ地域の名士ぞろいの中、三坂師自身の父親は師が3才の時に戦死され、戦後の厳しい経済状況の中で、幼少期、青年期を過ごしました。
母親一人の手で4人の子どもたちの二男として育てられました。それゆえ、子どもの頃から人生の疑問について深く考えるようになりました。

牧師になるまでの道のり ~救いと献身~

1959年、19歳になった三坂青年に転機が訪れます。
大手電機メーカーの関連企業に就職し、若手のホープとして将来を嘱望されていました。
ある日曜日の夕方、大阪の繁華街で路傍伝道に遭遇しました。
立ち止まって、クリスチャンの彼らの証しを聞き、釘付けにされます。今まで抱いていた人生のさまざまな疑問の答えがここにあると感じました。
「地上に、こんなに確信をもった人生観を語れる人たちがいるのか」ということに驚き、彼らの中にある情熱、真の喜び、いのちの輝きに圧倒されます。
一緒に居た友人は「僕は帰るよ」と言って帰って行ったが、三坂青年は彼らについて集会場へ。
その場所で語られる十字架の物語に至っては、両眼から筋になる涙を流しながら語られるメッセージに心を打たれ、何の躊躇も疑念もなく、イエス・キリストを信じて受け入れる決心をしました。

探し求めていた答えがここにあったのです!

たとえ、学問や地位、名誉があっても、死の力に打ち勝つことはできない・・・という灰色の人生観が一瞬にして塗り替えられ、歓喜に満ちあふれて小踊りしながら帰っていきました。

路傍伝道に遭遇した8月23日からちょうど一カ月後、9月23日に受洗。その更に一カ月後の10月30日に聖霊のバプテスマを受け、霊の目が開かれることになります。
それまで聞いていたメッセージやみことばが、自身の中に受肉するようになりました。
永遠の命、いのちの光、栄えに満ちた喜び、真の平安が、言葉を越えて、自分の中に実現することとなりました。

その時から三坂青年の心は献身への思いに捕えられ、主に生涯を捧げて、神学校へ進むこととなります。
「洗礼を受けた時に、私に与えられた人生の目的は、福音のために生きるためだった」とはっきりわかりました。
「ここに神学校があるなら私はここにくるべきだ。」信仰を持って2ヶ月目にその決心がつきました。

「私は献身したいです。」と言ったら、牧師からの回答は「誰でも彼でも献身はできませんよ。」との返事でした。
会社の社長にでもなって、献金して教会の二つや三つ建てるのも1つの選択かな、と思ったりもしましたが、
祈れば祈るほど、全世界を手に入れても一人の命を救いに導くことが、全世界より代え難いのではないか、と思い、
やはり、献身しかないのではと思いました。

本来は、信仰を持って最低3年ほど経過しないと神学校への入学はあり得ないと言われていましたが、
最終的には、信仰を持って、8ヶ月で会社を辞めて、神学生になりました。

「この絶大なる救いの恵みを、滅びゆく魂に伝えなければ」という一念に燃えていました。
入信して八カ月後、1960年4月、生駒聖書学院に入学。
1963年、卒業と同時に、ジョン・M・ベル師に促され、夫妻と共に関東に赴き、天幕による開拓伝道を開始しました。

教会開拓のあらまし

1963年に、東京・昭島市で開拓伝道を開始しました。
関西から関東に赴いたばかりの時は、現在の教会の位置から約300メートルほど離れた位置に、天幕(テント)を張っての伝道でした。
1963年に師匠であるテキサス州リバイバルテンプル(現:デスティニーチャーチ)のジョン・マックス・ベル牧師が東京に来られて、牧師任命の按手礼を受けました。
次の年に結婚し、長女(真聖)が誕生。昭島市堀向(ほりむこう)で2軒長屋を借りて、集会を行いました。

ジョン・M・ベル師は、米国テキサス州サンアントニオにあるリバイバルテンプル(現デスティニー・チャーチ)の牧師で、日本ネクスト・タウンズ・クルセード(現ネクスト・タウンズ・ミッション)の創始者です。

「三坂兄弟、わたしと一緒に東京に行きましょう」と言うベル師の言葉に素直に応答し、1963年5月、ステーションワゴンに天幕など荷物一式を積んで、関西から国道1号線で上京しました。
最初に「天幕の場所を捜しなさい」と言われ、第一回の天幕集会を拝島駅近くの広場で開催。
「ここで集会を続けなさい」と言い残し、ベル師夫妻は奈良に帰って行かれました。

三坂師は、ベル師のことばに「はい」と答えて従いました。

当時、住居は備えられはしましたが、経済的には非常に困難な時代でした。
しかし、「伝道をするために安定した収入の道を捨てて献身したのだから、伝道のための貴重な時間を、安易に収入を得るために使うまい。
信仰によって、経済のことはすべて主に拠り頼む」という決心をしていました。

そのような中で、上京8カ月後の翌年、1964年1月に堀八惠子姉妹と婚約。
堀姉妹とは大阪時代に姉妹の家の田んぼをオルダーソン師が天幕伝道集会の場所として借り、神学生と共に集会をしたときに面識はありましたが、話をしたことはほとんどなく、それぞれの牧師の紹介によるものでした。

三坂師は、「神様。あなたが私に一番ふさわしい人をご存知ですから、全てを御手におゆだねします」という姿勢で祈っておられました。
同年3月21日に、ベル師の司式により結婚。
八惠子夫人にとっては、見知らぬ東京への転地、さらにそのような厳しい状況の開拓牧師のもとへ嫁ぐ、大きな信仰の決断が必要な結婚でした。

新婚の三坂師夫妻は、住居兼教会として昭島市堀向に6畳と4畳半、3畳の家を借り、アメリカから宣教師として来られたクレメンス師一家とともに、集会をスタート。
さらに、天幕を設営しての集会や自治会館を借りての集会を重ね、キリスト教会の存在を明らかにし、地域の人たちが集い始めていました。
その頃、資金の無い状態ながら、信仰によって会堂建設を志すこととなります。
師は会堂の場所を祈りつつ探し求めて歩き、地価について不動産業者も顔負けの情報を得ることができました。

当時、祈りながら地域を歩き回りましたが、とある松林と桐畑の間に立った時に、「ここに会堂を建てたい」という思いが与えられました。
最初に網(天幕)を下した所から、300メートルの場所。

神様から、「午後1時に土地オーナーのところへ行くように」と示され、オーナーの方に、「私は、キリスト教を伝道している者です」と伝えたところ、「主われを愛す」と「慈しみ深き」の賛美を、一緒に歌うことになりました。
そして、その方が「協力しましょう」と言ってくださったのです。
当時は一坪3万5千円でしたので、ひとまず、55坪を購入しました。

それから1年半後、東京・代々木のワシントンハイツ(在日米軍の兵舎・家族用居住宿舎施設)の建物を解体し、現在の教会のある場所に移築することになりました。
代々木のワシントンハイツ(米軍ハウス)の廃屋の払い下げを買い取り、解体作業と廃材の移築に取り組みました。
土台と骨組みは発注しましたが、板張り、床張り、屋根張りはすべて自分たちで行いました。
経済的に厳しい時でしたので、給水用の水道は、市が引いてくれましたが、浄化槽は自分たちで地を深く掘って引きましたし、ベニヤ板を買ってきて、壁を貼るなど、手作りの会堂建築でした。
スレート瓦の苔をかき落とし、赤いペンキを塗り、一枚一枚を屋根に載せました。

この手作りの最初の会堂は「拝島キリスト福音教会」と名付けられ、1966年秋に集会がスタートしました。
最初の頃は、建物の外観から「大工さんか電気屋さん!?」と見間違えられる事もありました。

会堂が建ってからは、様々な集会を行い、ありとあらゆる駅で、チラシを配りました。
当時、路傍伝道は定期的にやっていましたし、テントを張った天幕集会も行なっていました。

ガリ版印刷のチラシを学校の門で配り、子どもたちに伝道をしたところ、クリスマスには長蛇の列ができました。
会堂での集会には、多くの若者たちが集うようになっていました。

その頃、熱心な信仰を持った青年が次々と献身していきました。
献身者を送り出す一方、主は、常に教会に若い力を送り続けてくださいました。
先頭を走っていた三坂師の姿に勇気づけられた若い青年たちは、会社に行く前に教会に来て祈り、会社が終わってからも教会に来て祈る、そのような教会中心の生活を楽しんでいました。
信仰生活が充実し、職場でもしっかりしていたので、周囲からの信頼も自然と厚くなっていきました。
こうして青年たちは、社会生活も祝福されていくのでした。

三坂師はその当時24歳になっていました。

早天祈祷会や徹夜祈祷会をよくやっていました。
早朝、多摩川の河原に行き、バレーボールをして、それから帰ってきて、EHC(Every Home for Christ/全国家庭文書伝道協会)の文書での伝道を行っていました。
これは、まず祈り、そのあと教会から街々へ放射線状に走っていき、マラソン配布という名目で、家々に伝道文書を配るという働きです。

一方で、実を実らせるためには、水を注がないといけません。
そのために「パトロール祈祷」というのを行っていました。夜、各地域で巡回しながらお祈りをしていました。

若者たちが情熱を持って、祈り、走り、種を撒き続ける日々の中で、献身者がどんどん起こされました。
献身して神学校に行った兄弟姉妹は、それぞれの地で開拓や教会に仕え、教会が形成されてゆくこととなりました。
現在、この教会からは、合計11家族が、それぞれ全国各地で伝道を行っています。

新会堂建設

「拝島キリスト福音教会」から「関東栄光教会」に改名したのは、現在の会堂(今から30数年前)が建った時です。

その頃、主が会堂建設を後押ししてくださるような出来事がありました。
師は当時、故障の多い車に乗っていましたが、今年も車検を取ろうと考えていた矢先、早天祈祷に来たある兄弟が
「先生、車を買い換えられることについてのお考えをお持ちでしょうか。今朝祈りの中で示されたのですが」と電話してきました。
さらに「100万円を献金するようにと示されました。車種については日産グローリヤのピアハードトップという車種にされたら良いのではと思います」とのことでした。

「ありがとう。考えてみます」とだけ返事をしました。
それから数時間後、祈りのために会堂に入り講壇に近づくと、まさにその同じ朝、日産に勤めている別の兄弟が、日産グローリアの新車のパンフレットを置いてくれていました。

夜の祈祷会で二人を呼び、「あなたたち、相談したの?」と聞くと、二人ともキョトンとしていました。
同じ車を二人の兄弟が、事前に示し合わせることもなく・・・それはとても不思議な出来事でありました。

三人の長老たちに、このことについて相談をした。一人の長老は、「偶然同じ日に別々の兄弟が、同じことを示されたのは神の御旨ではないでしょうか。」
もう一人の会計係の長老は「献金をされるし、よいのではないでしょうか。」さらに「先生に示されるままになさるとよいと思います」とのこと。
こうして、建設の前に「グローリア」の新車が与えられました。

現会堂の地続きの土地を購入し、新会堂を建設することになりました。工事は「利益なしで建築して差し上げます」という業者に依頼しました。
社長は教会の長老のお兄さんでありました。さらに、設計は一級建築士の兄弟に依頼しました。
彼はその頃、教会横に若い青年たちが住まうために借りていた住まいに設計事務所の看板を掲げ、見事2年後に一級建築士に合格していました。
銀行から建設資金を借りることができなかったので、兄弟姉妹が、「教会債をやりましょう!」ということで一致団結して協力しました。主が祝福してくださり、それらの教会債は10年以内に完済することができました。

手作りの会堂から、本格的に会堂を建築に着手したのは1986年1月です。

建設工事には半年ほど費やしました。
旧会堂を解体し、新会堂完成までの半年間は、礼拝場所が福生の市民会館や羽村の市民会館になったり、またある日曜日は川原などの野外で礼拝したりの移動礼拝でありました。
行った先々で主のご臨在が豊かにあり、あたかもイスラエルの荒野の旅の礼拝を彷彿させられました。

その時の経験を通して、「教会というのは、建物ではなく、人々の集まり(エクレシア)」なのだと、改めて認識しました。
人々の集まる場所に主の臨在が移行するのです。ですから、行った先々で大きな恵みを受ける事ができました。

昼は雲の柱、夜は火の柱、さらに幕屋の中心にあった主のご栄光。主のご臨在に守られ持ち運ばれた半年間の移動礼拝でありました。
新会堂に合わせて教会の名称に「栄光」を入れたい、と師が思われたのは、この半年間の移動礼拝での経験によるところが大きいのです。
新会堂の教会名に「栄光教会」を入れたい、というところまでは決まっていたが、その前につくものが「拝島(駅名)」なのか「昭島(市名)」なのか、はたまた「松原(町名)」なのか?
考えあぐねていましたが、最終的には、新車の「グローリア(栄光)」にも鑑み、「関東栄光教会」と改名しました。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章26-27節)

1986年7月1日、関東栄光教会の献堂式当日は、会堂が満席になっていました。
この日のメッセージを、テキサス州リバイバルテンプル(現:デスティニーチャーチ)のジョン・M・ベル牧師(&ルツ夫人)にお願いしました。
この先生は、師を奈良から東京まで連れて来て、すぐに帰ってしまわれた先生です(笑)。

ベル先生 「東京に行きましょう」
三坂   「はい」
ベル先生 「天幕の場所を探しなさい」
三坂   「はい」
ベル先生 「集会を続けなさい」
三坂   「はい」

師がベル先生に答えたのは、三度の「はい」だけでした。
この三度「はい」という判断がなかったら、今の教会はなかったことでしょう。

神の人の言葉は、新しく物事を生み出し、建て上げていきます。
献堂式にそのベル先生がいらしてくださったことは、先生から出て来た言葉が実った結果であり、証でした。
この方が、日本 ネクスト・タウンズ・クルセード(ミッション)の創設者です。

ベル先生が開拓当時、主に与えられたビジョンの御言葉は、

「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。」 (マルコ1:38)
“Let us go into the next towns,that I may preach there also.”

次の街(the next towns)に、福音を宣べ伝えよう。
これが、日本 ネクスト・タウンズ・クルセード(ミッション)のテーマ聖句です。

クリスチャンホーム形成について

関東栄光教会の歴史を振り返る時、大きな転換期となった年がありました。
1973年、三坂師はプリチャード師に誘われ、水野明廣師と共に、カナダとアメリカで20以上の教会を訪ねる旅をします。
その旅において、師は「クリスチャンホームの形成」と「賛美礼拝」という二つのビジョンを掴んで帰国されました。

カナダの教会で、家族ぐるみで来ている会衆が多いことに感動しました。
三坂師は、教会の一つの細胞として、家庭が教会になり、父親が小牧者となる、そのようなビジョンを持ちました。
クリスチャンホームの形成に欠かせない結婚への導き、出産、子どもたちの成長、家族で教会に来られるように教会を整えることに注力するようになります。

母親となった女性が子どもを連れて教会に行きやすくするため、母子室を完備。
教会学校が祝福され、子どもたちが教会に行くのを楽しめるよう工夫を凝らしました。
中学校にあがる子どもたちには新旧両訳の聖書をプレゼントしていますが、15~16冊贈呈が続く年もありました。
成長に応じた祝福をと願い、クラスに応じたプログラムを用意。子どもたちの興味をつなぐため、「ダビデの楽器隊」という名称で、それぞれが楽器を持ち、音楽を通して教会への参加を促しました。
子どもたちの小羊シンガーズ(未就学児)、キッズクワイヤ(小学校~)なども同様です。
現在、ダビデの楽器隊と教会音楽は長男の基師が担当しています。

開拓初期は青年の男子が多い教会でしたが、その後、婦人礼拝を開始しました。
教会で結婚した数名の婦人たちから始まり、リーダーの育成に力を入れ、婦人部が大きな力となって活躍するようになります。
地区集会(12カ所)、教会学校、学生集会、事務所、会堂の掃除、生け花、花壇…など、婦人たちの担う範囲は広く、教会も大変整えられています。

賛美礼拝について

カナダ、アメリカの教会にを訪れた際、一つ、目が開かれたことがありました。
それは、神のご臨在をお迎えする礼拝、すなわち「賛美礼拝」についてです。

カナダに呼んでくださったプリチャード師が、ぜひポートランドの教会を見なければならないとアレンジしてくださいました。
ポートランドにて、木曜日にある教会の礼拝に出席し、祈りと賛美の中にある濃厚な臨在、その中でも特に賛美礼拝の醸し出すご臨在を知りました。
礼拝に行くと、会堂ではなく、まず祈祷室に案内されました。
礼拝とはまず祈祷から始まるということを実際に行っている教会であった。
神の臨在を醸し出す祈りの声。その祈りがうねりとなって、天に上っていく響きに濃厚な主のご臨在を感じました。

賛美が始まると、賛美の力に圧倒されました。
会衆がまるで一人であるかのように、調和と秩序ある礼拝であった。その中に主の臨在を強く感じました。
会衆一人ひとりが喜び、輝いていました。
講壇でミニストリーする人たちだけがミニスターではなく、みことばを聞く人々も、会衆席で聞くことをミニストリーとして認識している姿をそこで見ました。
秩序ある流れ、御霊の流れの中にある賛美礼拝の素晴らしさを味わいました。

そこで三坂師は、賛美について研究し始めました。
神様に喜ばれる賛美の礼拝のあり方とは何か、ということを強く意識するようになったのです。

ある朝、三坂師は「賛美を栄光に輝かせよ」という御声を聞いて起きました。
主の語り掛けかな?と思い、「主よ、どのようにして賛美を栄光に輝かすことができるのでしょうか?」と問い掛けました。
すると、「力を入れて賛美せよ」と主が仰せられた。
「力を入れて賛美せよ・・・はて、こんなみことばが聖書にあったかな?」と静まっていると、以下のみことばが与えられました。

「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」(ネヘミヤ8:10)。

主が力いっぱいの賛美を喜んでくださる。
以来、賛美礼拝では力を入れて賛美することにしました。気の抜けたような賛美はしない。
どのような状況の中にあっても力いっぱい賛美する。
主をほめたたえる賛美の心で、思いを込めて賛美する時、主はそのような賛美の中に住んでくださる。

また、「巧みに弦をかき鳴らせ(詩篇33:3)」ともみことばにあるため、技術的な高度さも求めていきました。

日本のプレイズ&ワーシップの草分け的な存在として、要請を受け、賛美礼拝の講義を各地で行いました。
「リビングプレイズ」という賛美ディボーションCDの制作に協力しました。
長女真聖師は米国において教会音楽を学び、帰国後、リビングプレイズ各巻の制作にも奉仕されました。
そして各地で開催された「リビングプレイズ セレブレーション」というイベントにも参加しました。

教会における賛美礼拝が整えられていく中で、主のご臨在を迎え、未信者や新来会者もご臨在の中に入りやすくなる。
さらに賛美の中では癒やしや解放がある。そのようなご臨在の中で、主ご自身が直接牧会されることにもつながりました。

そうした流れの中で、関東栄光教会の礼拝を紹介してほしい、という依頼も受け、いくつかの場所で講義させていただくこともありました。
関東栄光教会は、賛美礼拝を通して礎が築き上げられました。

賛美は、決して形式的なものではありません。御霊の自由による賛美の礼拝とは何か。
「賛美」というテーマでコラムをまとめましたので、ご興味のある方はお読みください。

賛美礼拝について

霊の家に築き上げられる

現在、関東栄光教会では、礼拝説教を三坂師と長男の基師、
BFPのハイナイト祈祷(イスラエルと日本のための祈り)を長女の真聖師、
宣教活動の地域担当を古谷洋一・ルツ伝道師夫妻、川村兄、澤﨑兄が担当し、多世代教会形成に取り組んでいます。

来るべき「栄光の教会(エペソ5:27)」の一部として主の前に立たせていただく日まで、三坂師が大切にしておられることが幾つかある。そのうちの一つが「霊の家として築き上げられる」ことです。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
・・・あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:5~9)

教会が霊の家として築き上げられるために、重要なことを二つ語っていただきました。
一つは、教会がイエス・キリストご自身のものであり、岩の上に主自らが建てられるもの、という認識であります。

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)

三坂師に主ご自身が「私が関東栄光教会の主任牧師だよ」と語ってくださった通り、教会を立案・設計・施工・完成し、統治されるのはイエス様です。
人間の努力や熱心がそれに付け加えることは何一つ無い(ただし、勤勉であることは必要)と師は振り返ります。
信徒たち一人ひとりは、大牧者にして偉大なる祭司である主と共に、万民祭司としてキリストの御体である教会に組み込まれています。

次に、信徒たちが「所属している教会に植えられている」ということが大切です。

「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。」(詩篇92:13)

関東栄光教会には、静かに根を張り、横へ下へと根を伸ばす、まさに主の家に「植えられている」信徒の皆さんの存在があります。
そのような信徒一人ひとりが霊の家として築き上げられ、揺るぐことの無い岩の上に建つ教会形成に仕えておられます。
何に根ざすのか。キリストに根ざし、みことばに根ざし、愛に根ざし、信仰に根ざし、祈りに根ざすのです。
そのような人は、豊かな実を結ぶ義の樫の木です。

「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。」(詩92:13)

関東栄光教会は今日も、感謝にあふれ、喜びをもって主イエス・キリストを宣べ伝え続けています。